デフレを喜べない ― 2009年10月15日
プライベート・ブランドなど、値段の安さをさらに競争する動きが盛んになっています。安いことは良いことだとは喜べない。
結局、そのツケがどこかに回っている。
売り上げが伸びて、企業収益が上がって株主配当が増えて。
では、安売りの原資はどこが払っているのか。そんな疑問が湧いてきますね。これまでは、海外の途上国の安価な労働力に頼ってきた。それで、かなりの歪みが出てきていて、生産場だけでの負担ができなくなったことから、流通や販売のコストも絞るだけ絞るという動きになった。
そうした動きとその影響が、何事も最先端のアメリカですでに問題になっている。日本では上映されない映画を紹介するMXの番組で紹介された「Wal-mart 」は、包み隠さずその現状を伝える。
こうした作品を世に送り出すことができると言う点で、まだまだアメリカは捨てたもんじゃないと感服する。日本じゃ絶対こういう企画が世に出ることはない。マスコミのビジネスモデルが固定されてしまった現状では望むべくもない。
『家畜人ヤプー』の世界が、まるっきりフィクションの世界とは思えない、そんな時代を生きている。
結局、そのツケがどこかに回っている。
売り上げが伸びて、企業収益が上がって株主配当が増えて。
では、安売りの原資はどこが払っているのか。そんな疑問が湧いてきますね。これまでは、海外の途上国の安価な労働力に頼ってきた。それで、かなりの歪みが出てきていて、生産場だけでの負担ができなくなったことから、流通や販売のコストも絞るだけ絞るという動きになった。
そうした動きとその影響が、何事も最先端のアメリカですでに問題になっている。日本では上映されない映画を紹介するMXの番組で紹介された「Wal-mart 」は、包み隠さずその現状を伝える。
こうした作品を世に送り出すことができると言う点で、まだまだアメリカは捨てたもんじゃないと感服する。日本じゃ絶対こういう企画が世に出ることはない。マスコミのビジネスモデルが固定されてしまった現状では望むべくもない。
『家畜人ヤプー』の世界が、まるっきりフィクションの世界とは思えない、そんな時代を生きている。
ひさしぶりに更新です ― 2009年10月12日
遠距離の出張はひさしぶりです。
明日の午前中から会議があるので、前日の移動となりました。秋の京都は宿を取るのが大変。何とかビジネスホテルに潜り込んだものの、会議会場の近くはほとんど満室でした。
ながらく、ここに書かない間にいろいろありました。
手続きが一足飛びという案件がいろいろありますが、交代してそのスピード感を出すにはこれぐらいの荒療治が必要なのかも知れない。前例踏襲を断つには。
様々、動きがある中をじっくり見ていると、どこが舞台裏を牛耳っているか透けて来るように思います。配分の転換に伴ってちゃんと負担のバランスが忘れられずに手当てされている。それで、トータルはどうなるかをよくみてみるとあ〜ら不思議。
ばらまきなどではなく、そのウラをちゃんと押さえている。あれだけ与野党こぞって”財源!”と叫んでいただけのことはあります。今回の政権交代がどのような社会を作ろうとsているのか。
注意深く見ていく必要があると思われる。
ヶヶ中、○泉以上に競争原理の大好きな人が今の与党には有象無象いますから。それ以上の振れ方をする危険性がある。少数政党が連立に加わっていますが、女性党首の党は55年体制崩壊時の二の舞になりますね。
もうひとつの政党は、そもそも保守指向の(?)色合いがありますから、極左から極右までそろっている現与党にあっては、ほぼ中道といえる位置にあり、十分に共感を持って手を携えることができる人が多いのではないでしょうか。
いろいろ、あります。
確実に言えるのは、技術官僚が一方的に集中砲火を浴びていることです。超ドメスティックな技術官僚は、社会構造の変化に対して新しい指針を打ち出すことができなかった。
しかし、ピンチはチャンス。今回の政権交代は、これまでの軛を解き放つ二度と無い機会になるのかも知れない。
ただ、人・モノ・金を集中させて効率を上げて、外貨を稼ぎ地方に分配するというモデルが成り立たなくなってしまった以上、その延命に拘ることは許されないのかも知れない。今主流のモデルは、外で稼いだ利益が国内に循環するモデルになっていない。労働力のグローバル化は、その対価を国内にもたらさない。よく言われている、企業の収益がどこに分配されているか。これまでは、労働の対価として賃金として国内に循環していた。
しかし、今はどうか。労働の対価はドンドン目減りをしていて、配当金や経営当局への配分は収益見合いかそれ以上の率で伸びている。
この仕組みが今回の政権交代程度でドラスティックに変わるとは正直思えない。いろいろと批判は在ろうけれども、特別会計や特殊法人、公益法人に蓄積されてきた資金もすべて吐き出して、民間資金の流れに乗せて海外に流出してしまうことだろう。
そういう意味では、ステレオタイプの見方をあえてすれば、国際派と国内派のせめぎ合いの中で、国際派が覇権を握る時代がまだまだ続くということになるのだろう。55年体制下の社民的な日本の姿を取り戻す可能性はほぼ潰えたといえる。
明日の午前中から会議があるので、前日の移動となりました。秋の京都は宿を取るのが大変。何とかビジネスホテルに潜り込んだものの、会議会場の近くはほとんど満室でした。
ながらく、ここに書かない間にいろいろありました。
手続きが一足飛びという案件がいろいろありますが、交代してそのスピード感を出すにはこれぐらいの荒療治が必要なのかも知れない。前例踏襲を断つには。
様々、動きがある中をじっくり見ていると、どこが舞台裏を牛耳っているか透けて来るように思います。配分の転換に伴ってちゃんと負担のバランスが忘れられずに手当てされている。それで、トータルはどうなるかをよくみてみるとあ〜ら不思議。
ばらまきなどではなく、そのウラをちゃんと押さえている。あれだけ与野党こぞって”財源!”と叫んでいただけのことはあります。今回の政権交代がどのような社会を作ろうとsているのか。
注意深く見ていく必要があると思われる。
ヶヶ中、○泉以上に競争原理の大好きな人が今の与党には有象無象いますから。それ以上の振れ方をする危険性がある。少数政党が連立に加わっていますが、女性党首の党は55年体制崩壊時の二の舞になりますね。
もうひとつの政党は、そもそも保守指向の(?)色合いがありますから、極左から極右までそろっている現与党にあっては、ほぼ中道といえる位置にあり、十分に共感を持って手を携えることができる人が多いのではないでしょうか。
いろいろ、あります。
確実に言えるのは、技術官僚が一方的に集中砲火を浴びていることです。超ドメスティックな技術官僚は、社会構造の変化に対して新しい指針を打ち出すことができなかった。
しかし、ピンチはチャンス。今回の政権交代は、これまでの軛を解き放つ二度と無い機会になるのかも知れない。
ただ、人・モノ・金を集中させて効率を上げて、外貨を稼ぎ地方に分配するというモデルが成り立たなくなってしまった以上、その延命に拘ることは許されないのかも知れない。今主流のモデルは、外で稼いだ利益が国内に循環するモデルになっていない。労働力のグローバル化は、その対価を国内にもたらさない。よく言われている、企業の収益がどこに分配されているか。これまでは、労働の対価として賃金として国内に循環していた。
しかし、今はどうか。労働の対価はドンドン目減りをしていて、配当金や経営当局への配分は収益見合いかそれ以上の率で伸びている。
この仕組みが今回の政権交代程度でドラスティックに変わるとは正直思えない。いろいろと批判は在ろうけれども、特別会計や特殊法人、公益法人に蓄積されてきた資金もすべて吐き出して、民間資金の流れに乗せて海外に流出してしまうことだろう。
そういう意味では、ステレオタイプの見方をあえてすれば、国際派と国内派のせめぎ合いの中で、国際派が覇権を握る時代がまだまだ続くということになるのだろう。55年体制下の社民的な日本の姿を取り戻す可能性はほぼ潰えたといえる。
【映画】劔岳 点の記 ― 2009年06月20日
国土地理院協力の映画が今日封切られました。市内のシネコンが偶然特価日でしたので、前売券より安く鑑賞することができました。
明治末期の地図を作る人たちとそれを応援する地元の山人の映画です。新田次郎原作。FSXによるごまかしは無しという監督のふれこみでした。雪崩のシーンは合成かなという感じでしたが、SFXではなく昔ながらの模型?での雪崩か、模型で雪崩を再現することの方が難しいので、記録映像と芝居の合成かも知れません。こだわりといえば、登山につきものの滑落のシーンも人形ではなく、スタントによるものだったようでしたから嘘にならないことにこだわって作られている、時間と人手のたっぷりかかった作品であることが分かりました。
北アルプスの雄大な自然と風景が惜しみなく使われていました。あれだけの素晴らしいワンカットのために、天気の不安定な山でどれぐらいのロケをしたのでしょうか。
未踏峰の劔岳登山の途中、雪渓を行くパーティの鳥瞰がありました。スケールの大きな自然環境のなかで、人はいかにちっぽけな存在であるのか。私たち人間は、ほんの少しの間間借りしているだけに過ぎず、我が物顔に振る舞うことのいかに傲慢なことか。を思い知らされるシーンでした。
地図を作る仕事は、陸軍に所属する地理測量部が行っていたのですね。地図を作る技術屋は文官で、幹部は軍人という組織からという役割分担ですが、今も昔も変わらない、現場と内業の乖離。板挟みになる現場のリーダーという構図はここにもありました。最後のオチの部分は、そうだよなと頷けますし、それを考えつかない方がどうかしているとも思えます。
劇場公開を意識して少々はしょったかなと思われる部分がなきにしもあらず。ディレクターズ・カットで見てみたいものです。おそらく、贅沢なシーンのカットがあるんじゃないでしょうか。
季節のうつろいが素晴らしいカットで残されています。撮影監督として長年勤めてきた監督のこだわりが随所に感じられます。
静かで、穏やかな映画です。
テクニカルな見方や、つじつま合わせのミスなど重箱の隅を突くような見方はしたくありません。
絡まったストーリーも、複雑なトリックもありません。
直球勝負の映画です。
ただ、映し出される風景と人間模様を淡々と味わう。
そういう鑑賞が相応しい作品ではないでしょうか。
しいていえば、「何のために・・・」を自分に向かって問うことでしょうか。
明治末期の地図を作る人たちとそれを応援する地元の山人の映画です。新田次郎原作。FSXによるごまかしは無しという監督のふれこみでした。雪崩のシーンは合成かなという感じでしたが、SFXではなく昔ながらの模型?での雪崩か、模型で雪崩を再現することの方が難しいので、記録映像と芝居の合成かも知れません。こだわりといえば、登山につきものの滑落のシーンも人形ではなく、スタントによるものだったようでしたから嘘にならないことにこだわって作られている、時間と人手のたっぷりかかった作品であることが分かりました。
北アルプスの雄大な自然と風景が惜しみなく使われていました。あれだけの素晴らしいワンカットのために、天気の不安定な山でどれぐらいのロケをしたのでしょうか。
未踏峰の劔岳登山の途中、雪渓を行くパーティの鳥瞰がありました。スケールの大きな自然環境のなかで、人はいかにちっぽけな存在であるのか。私たち人間は、ほんの少しの間間借りしているだけに過ぎず、我が物顔に振る舞うことのいかに傲慢なことか。を思い知らされるシーンでした。
地図を作る仕事は、陸軍に所属する地理測量部が行っていたのですね。地図を作る技術屋は文官で、幹部は軍人という組織からという役割分担ですが、今も昔も変わらない、現場と内業の乖離。板挟みになる現場のリーダーという構図はここにもありました。最後のオチの部分は、そうだよなと頷けますし、それを考えつかない方がどうかしているとも思えます。
劇場公開を意識して少々はしょったかなと思われる部分がなきにしもあらず。ディレクターズ・カットで見てみたいものです。おそらく、贅沢なシーンのカットがあるんじゃないでしょうか。
季節のうつろいが素晴らしいカットで残されています。撮影監督として長年勤めてきた監督のこだわりが随所に感じられます。
静かで、穏やかな映画です。
テクニカルな見方や、つじつま合わせのミスなど重箱の隅を突くような見方はしたくありません。
絡まったストーリーも、複雑なトリックもありません。
直球勝負の映画です。
ただ、映し出される風景と人間模様を淡々と味わう。
そういう鑑賞が相応しい作品ではないでしょうか。
しいていえば、「何のために・・・」を自分に向かって問うことでしょうか。
最近のマイ・ブーム ― 2009年06月06日
最近のマイブームは脳科学と終末医療。
前者は、とあるblogで紹介されていたのがきっかけで、意識がどこにあるのか。心はどこにあるのか。ずっと気に掛けていたことが、いまどこまでわかっているかを、専門用語を極力使わず書かれている文献にようやく出会えた。
今真っ盛りの茂木先生のは、パラッと立ち読みした段階では気が引かれるのだが、いざ自分のモノにして読むとなると中々先に進めない。彼の書籍と私の相性が悪いのだろうか。
そこに、「錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった 前野 隆司著」であるとか、「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く 同著」であるとか、池谷祐二先生の手頃な著作(単純な脳、複雑な「私」、進化しすぎた脳 (ブルーバックス) )があることを知った。母校で現役高校生を相手に講義をした記録が底本になっているもので、それぐらいであればついて行けそうな感じがした。
それでも、まだ助走が必要かと思って「海馬―脳は疲れない (新潮文庫) 池谷 裕二 糸井 重里」を読んで行けそうな感じがした。そこで、主要な著作を大人買いをしてしまった。
それで、後者の方は終末期に実際は七転八倒の苦闘を続けているその合間にあるわずかな穏やかな時間を使って残された記録や著作にその珠玉をみるからだ。
そこに、その者の生きた総括があり、後悔も諦念もすべて飲み込んで残された、純度の高い一言一言に触れる貴重な場であると信じているからだ。
そのなかでは、「がんと闘った科学者の記録 戸塚 洋二, 立花 隆著」をこれから読む。
著者は、小柴先生の後にノーベル賞受賞が確実されていた実験物理学者でした。その方が遺した「戸塚教授の「科学入門」 E=mc2 は美しい! 戸塚 洋二著」は、科学を志す若者に向けて闘病中に書かれたblogが底本になっている。最前線の科学者が後人に託した思いに触れることは何よりも力を与えてくれるものだ。これからその世界に触れることを楽しみにしている。
前者は、とあるblogで紹介されていたのがきっかけで、意識がどこにあるのか。心はどこにあるのか。ずっと気に掛けていたことが、いまどこまでわかっているかを、専門用語を極力使わず書かれている文献にようやく出会えた。
今真っ盛りの茂木先生のは、パラッと立ち読みした段階では気が引かれるのだが、いざ自分のモノにして読むとなると中々先に進めない。彼の書籍と私の相性が悪いのだろうか。
そこに、「錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった 前野 隆司著」であるとか、「脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く 同著」であるとか、池谷祐二先生の手頃な著作(単純な脳、複雑な「私」、進化しすぎた脳 (ブルーバックス) )があることを知った。母校で現役高校生を相手に講義をした記録が底本になっているもので、それぐらいであればついて行けそうな感じがした。
それでも、まだ助走が必要かと思って「海馬―脳は疲れない (新潮文庫) 池谷 裕二 糸井 重里」を読んで行けそうな感じがした。そこで、主要な著作を大人買いをしてしまった。
それで、後者の方は終末期に実際は七転八倒の苦闘を続けているその合間にあるわずかな穏やかな時間を使って残された記録や著作にその珠玉をみるからだ。
そこに、その者の生きた総括があり、後悔も諦念もすべて飲み込んで残された、純度の高い一言一言に触れる貴重な場であると信じているからだ。
そのなかでは、「がんと闘った科学者の記録 戸塚 洋二, 立花 隆著」をこれから読む。
著者は、小柴先生の後にノーベル賞受賞が確実されていた実験物理学者でした。その方が遺した「戸塚教授の「科学入門」 E=mc2 は美しい! 戸塚 洋二著」は、科学を志す若者に向けて闘病中に書かれたblogが底本になっている。最前線の科学者が後人に託した思いに触れることは何よりも力を与えてくれるものだ。これからその世界に触れることを楽しみにしている。
【本】厚生労働省崩壊 ― 2009年05月10日
題名を一瞥しただけだと、よくある内輪話の役にもたたない告発本擬きかと思われました。厚生労働省は、ほかの役所とは少し変わっていて、医務系技官がいて医療行政における専門技術的な部分を担当している、彼ら彼女らは、帰国子女であったりするケースがあって、一旦霞が関の外の飯を食っている。だからなのか、会社のルールに疑問を持ったらそれが慣例だとしてもストレートに反応するようだ。ちょうど20年近く前にも、宮本正於という医務系技官が、「霞が関の常識は社会の非常識」という内幕暴露本を出版して持て囃された。その手の本であれば、その当時は新鮮さを持って迎えられたが、今となっては同じような内幕本が多数あるなか目新しいものではない。
このあたりを踏まえてのことか、あまりどぎつい事例はとりあげられていない。むしろ、前半の保健衛生の現状を多少寄り道をしつつも明らかにして、そのあとでそれを前提にシミュレーションをしてみせる辺りが読みどころであり、単なる暴露本と一線を画すところか。
我が国では有事の際の危機管理がおざなりにされているのは何処の分野も同じのようだ。陸続きでない島国という地政学的な要素が影響してのことなのかもしれない。
むしろ、こうした危機管理を意識して毎日を過ごすと言う緊張状態の持続に対して我々は弱いことからそうせざるをえなかったのかとも思われる。
国民保護法が制定された後も、ここに書かれているような平常時と緊急時の使い分けができないとすると手も足も出ないことになる。このあたりを考えると恐ろしくなってしまう。
危機管理を意識すると、冗長性というものが切っても切れない。システムの中にどれだけの”余り”を持たせることができるかに尽きる。技術開発により代替がきくものには限界があり、人材として質と量の両方を”公”のセクターに確保することが欠かせない。そういう議論を行うことすら躊躇われる昨今の趨勢に暗澹たる思いがする。
いずれにせよ、こうした危機管理能力の不備についてシミュレーションを行い、問題点を明らかにするとともにその解決を図る必要があり、その一端を担いうる問題提起がなされている。
惜しむらくは、クライシスシミュレーション小説の例として自然災害を取り上げた石黒曜氏の諸作ほどの緻密さに欠けることと、前提を説明するための下世話な話が余分に思われる。
このあたりを踏まえてのことか、あまりどぎつい事例はとりあげられていない。むしろ、前半の保健衛生の現状を多少寄り道をしつつも明らかにして、そのあとでそれを前提にシミュレーションをしてみせる辺りが読みどころであり、単なる暴露本と一線を画すところか。
我が国では有事の際の危機管理がおざなりにされているのは何処の分野も同じのようだ。陸続きでない島国という地政学的な要素が影響してのことなのかもしれない。
むしろ、こうした危機管理を意識して毎日を過ごすと言う緊張状態の持続に対して我々は弱いことからそうせざるをえなかったのかとも思われる。
国民保護法が制定された後も、ここに書かれているような平常時と緊急時の使い分けができないとすると手も足も出ないことになる。このあたりを考えると恐ろしくなってしまう。
危機管理を意識すると、冗長性というものが切っても切れない。システムの中にどれだけの”余り”を持たせることができるかに尽きる。技術開発により代替がきくものには限界があり、人材として質と量の両方を”公”のセクターに確保することが欠かせない。そういう議論を行うことすら躊躇われる昨今の趨勢に暗澹たる思いがする。
いずれにせよ、こうした危機管理能力の不備についてシミュレーションを行い、問題点を明らかにするとともにその解決を図る必要があり、その一端を担いうる問題提起がなされている。
惜しむらくは、クライシスシミュレーション小説の例として自然災害を取り上げた石黒曜氏の諸作ほどの緻密さに欠けることと、前提を説明するための下世話な話が余分に思われる。
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