【本】神々の軍隊VS国際金融資本の超暗闘 国体=天皇を護る人々の聖なる敗戦2009年03月23日

そういう見方もあるのだなと感心をしました。三島が何故市ヶ谷で割腹自殺に至ったか。三島に継がれた神々の軍隊の意志を軸に昭和以降の日本の断片を切り取ってくる。
そこに描かれているのは、貨幣の手先となった「ひと」たる存在の醜さである。(それを醜いと感じ嫌悪感をもつか、それは仕方がないと目を瞑るか、どちらも”あり”であると思う。そのことに良いも悪いも無いのだろう。)
どうして、ああいうことになってしまったのか。
これまでの「表向き」の歴史観とはひと味違った切り口で読む者に迫ってくる。

貨幣に支配された擬人化した存在の不気味さあるいはそのおぞましさを畏怖する自分がいます。「ひと」もしくは「大人」という括りがされたときには、逃れられない立場ということになるのであろう。ただ、我が身を振り返ってみるならば、その位置に就くことの居心地の悪さに耐えられるかどうか、十中八九耐えられないだろうと思う。

果たして、それで世の中を渡っていけるのかという疑問はある。しかし、恐らく落後してでもその位置には就けない。そのことの覚悟が必要だろうと思う。
その覚悟を揺るぎなく持ち続けること。それだけを常に意識していたいものであると思う。それができている分には、自分に迷うことはないのだろうと思う。

この本を読んでいると、姿の見えない「ひと」と化した「貨幣」の権化のどうしようもなさや、それを発明することで実現した現代社会とその限界について、改めて考えるべきである。現代はその行き止まりにおける停滞感や閉塞感が蔓延しているのではないか。

「貨幣」の発明によって実現された分業社会の中で生きていくことを選択したのだから、そのものを否定することは今の生き方を根本的に問い直す必要が生じる。それは、ある種の義務でもあるだろう。